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祝福芸:伊予万歳の全て

祝福芸:伊予万歳の全て

どの地域に行っても、その土地その土地で出し物は大きく変わって来るものです。

愛媛県中部松山市一帯に行われている万歳(祝福芸)で民俗芸能の一でもある、伝統伊予万歳を紹介いたします。

本来は正月のもので、太夫(たゆう)・才蔵(さいぞう)・次郎松(じろまつ)に三味線・太鼓の囃子(はやし)がつき、踊り子など10名ほどが出る。

太夫の詞(ことば)・唄(うた)、太鼓、三味線、拍子木(ひょうしぎ)によって横隊形式で演じる集団舞踊。

服装は金糸銀糸の縫い取りに鏡片やガラス玉を取り付けた折頭巾(おりずきん)、女物の長襦袢(ながじゅばん)に色襷(いろだすき)、そしてロングスカート状の袴(はかま)といったきわめて「はで」である。

その由来は、約360年ほど前の江戸時代中期の寛永年間(1624年~1643年)に松山藩初代藩主の松平定行が桑名(くわな)から転封の際に、愛知県「知多(ちた)万歳」を招いて、正月の2日に松山で「太夫」と「才蔵」の2人だけで舞踊したもので、以後、文化・文政(1804年~1829年)のころから村々の祭礼に20人余りの人数で「柱揃え(はしらぞろえ)」の歌をうたって「万歳」を行うようになったといわれている。

天保年間(1830年~1843年)には「溝辺騒動」という松山溝辺地方にあった一つの事件や、「宮島心中」などの物語を劇化して踊るというように、内容も次第に充実し面白いものとなって人々に踏襲(とうしゅう)されてきて、松山地方の町村で祭礼や縁日などには必ずといってよいくらい舞台を作ってこの「万歳」が行われ、演目も、扇を多数使って老松を表す「松づくし」のほか、「松山名所づくし」「豊年踊り」「お染久松」「忠臣蔵」「柱づくし」「義経(よしつね)千本桜」など多彩で、始めと終わりと、曲の間あいだに才蔵踊が踊られる。

また、踊りの合間に「仁和賀芝居」を入れて色づける場合もある。

明治維新の後、わずかにこの芸を伝えたのが、沢田亀吉で、彼の伊予万才を見た正岡子規は「沢亀の、万才見せう 御国ぶり」という句を作っている。

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